2022.12.12
Part3 "世界栄養学界の先駆者 佐伯矩先生のこと" 雑誌『日本食生活』より
『マーチ・オブ・ジャパン』エドガー・ライタ著
国立栄養研究所の所長、佐伯矩博士は、食物の料理方法について、極めて適切な放送を行い日本に平和革命、即ち栄養改善の道を開拓するために努力したのだ。
佐伯博士の目的は、国民栄養を科学的基礎の上に置き、人びとの要求を満たす線まで引き上げることであった。それには、できるだけの穀類を集めて、食料品販売を専売制度にするのを目的とした。
工場とか、学校とか、兵営とかまたあらゆる地区において緊急の場合には、一つの調理場で食事を準備するようにしなくてはいけないし、そしてまた日本人は三度の食事に2ペンス以上を支出してはいけない。そうしてて賃銀というものを、うまくきめるべきであると・・・。
この驚くべき佐伯教授の研究(所)は、たちまちにしてセンセイションをまき起した。
いままでに聞いたことのない食糧品が、研究所に貯えられ、やがてこれが、救援物資とそて必要な時代が来るであろうと予測した。
研究所は、重要であるのに反して、その建物はひどくお粗末なものである。飾りといえば、玄関前にある垣でかこまれた松の木だけである。その松は、天皇がはじめて訪問したときに植えられたものだ。天皇が訪問したとき佐伯博士は、田舎医者の待合室と何等変わりないようなところで、自分の計画を説明された。
佐伯博士が頭を振ったとき、それはまるで deed box の maze でなげられたフットボールのように見えた。
学童のような目をした、この60才(現在82才)の老人は、棚の中や机の上一ぱいになった書類の海の中から、日本の食糧問題の歴史を私に話してくれた。
日本は1868の復興(明治維新)以来、食糧問題と対決してきた。日本において栄養(食糧)は常に不足し、それがために人びとは生活に苦しめられたのである。
日本政府は、1882年ドイツの医学者と経済学者を招聘し何年かの間研究した。彼等(ドイツの学者達)はイーストや、脂肪の食事に改めることをすすめたのだった。陸海軍(当時の)は彼等の助言を採用し良好な結果をもたらしたのであるが、然し農村の人びとに、より多くの魚や、野菜を供給することは不可能であった。これは貧困が、この計画を一般的に実施することを阻止したのである。つまり農村は貧しさ故に實効に至らなかったのだ。
日本の人口は1872年以来2倍となった。・・・日本人は移住することを嫌うから、20世紀の終わり頃にはろには更にその倍となろう。